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地獄のイコノソフィア



久々に『地獄の黙示録』


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(2009/07/17)
マーロン・ブランド、マーティン・シーン 他

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私の映画ベスト3の中に入ってる映画のひとつなんですが

内面世界の探求の物語、特に恐怖への向き合い方については誰よりも詳しく教えてくれた映画だけど、反戦だけでなく、今の社会への批判としても当てはまるし、色々な比喩として成り立つなぁと改めて実感。

ゲド戦記然り、戦争映画の服を纏った、現代のアイデンティティ探索の物語(最後に倒すのは、シャドウである自分自身)であり、社会風刺、神話映画でもあるよなぁと。

そして、映画を観ながら中沢新一の『イコノソフィア』を読んでいたのだけど…

イコノソフィア―聖画十講 (河出文庫)イコノソフィア―聖画十講 (河出文庫)
(1989/10)
中沢 新一

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ちょうど本の第三講-聖ジョージの竜退治-という章を読みながら…気がつくと

『生贄によって形成される社会システム』について書かれた文章と、目の前に繰り広げられる映像が絶妙なシンクロ状態に(*´Д`*)==

まさにカーツ大佐は、彼のいうところの竜、あらゆる恐怖の戦争の渦中にいる人たちにとってのスケープゴート。
彼の殺害は神話的に必然だったんだ、と再解釈★


つまり…中沢新一によると、カオスが渦巻く世界では、新しいシステムを構築する際にスケープゴートが必要になるそう。

今までは、誰かを凶弾にあげる人を見ると、ユングの言う所の『投影』なんじゃないか?(自分自身内部の過剰な部分を他者に投影し、その相手を攻撃・抹殺する儀式をすることで『自分』という存在への確信を固める)そういう自分本位なシステムを形成するやり方は、自我を増長させるばかりで身勝手で、卑怯なやり方じゃないか?と反発感しか感じなかったけれども…

どこかの誰かが、カーツ大佐を殺害しなければ、この悪循環からは抜け出せない。新しいシステムは、古いシステムを破壊し、その悪循環を断ち切らなければならない。物で隙間なく埋め尽くされた不毛な大地には芽も出ず、成長もできない…。

っていうのが、軍内部での直視したくない自分自身の狂気を【投影】した結果の考えで、臭いものに蓋をするようにカーツ大佐ひとりをスケープゴートにして消し去ろうとしている、っていう否定的な見方だけをしていたのだけど。(そして、彼らがまた同じ人々を生み出して巡り巡る悪循環が、まさに今の社会そのものな気がする。そういう意味で、この映画は社会批判とも読み取れるよなぁ)

…でも、中沢新一によると私とあなた、感情だけになって対立する世界では、客観的で理性的な俯瞰した視点が欠けていて、その欠けた第三者の視点を生み出して進化するためにはスケープゴートという、私でもあなたでもない第三者の存在(追放された部外者としての)が必要になるのだと。

なるほど、確かにそういう視点もあるんだなぁと目から鱗でした!

確かに、第三者の冷静な視点を生み出す必要があった…
って視点で考えるのは発展的だし、実際に2つの対立するものから新たな3つ目が生まれるには、まずは2つの反対勢力をひとつに結びつけなければならないだろうし、そのためには2つを結びつけるためのきっかけになる生贄の存在が必要なのかも。それは進化の法則でもあるのかもしれない★

そう考えると、今までのエントロピー増大、分離相反カオスに向かって真っしぐらの時代から新たな時代を生み出すためには、生贄となる犠牲者が必要不可欠だということじゃないんだろうか?

今の現実では、その犠牲者というのは震災の被害者の方々だろうし、これからますます熾烈を極めるだろう災害での犠牲者の方々なんだろうと思う。

その犠牲者の方々によって、分離していがみ合っていた人たちがひとつに融合出来る。きっと、災害でみんなが犠牲者の人々の苦難を知ることによって第三者の視点があることに気づけるのじゃないか?つまり、犠牲者とは違う、あなたと私の共通点である【生きている】って事実が実感されてくるし、困難な時代だけど【みんなで助け合おう】って共通の目的が生まれて、今までのやり方ではない、もっと俯瞰した全体像から導き出される新しいやり方が見えてくるからじゃないだろうか?


…ちょっと話がずれたけど、映画の中では、カーツ大佐と向き合い血みどろの殺害の儀式を体験したのはウィラード大尉ただひとり。そして、その同じ空間・時間を共にし、同じように儀式体験をしたのはカーツ大佐率いるカーツ帝国の人々だけ。

そういった儀式は、実際に肌身で感じ、体験してみることで変容をもたらすものなのだろうから、実際に儀式を体験し、そのインパクトを痛烈に体感した彼らの中では、カーツ大佐というスケープゴートの死から新しいシステムが生まれる体験となり得たんだろうと思う。

そして、カーツ大佐は類稀な感性の豊かさと創造力やカリスマ性で、辛うじて世界との繋がりと存在意義を創り出すことが出来てはいたけれど…

生来の詩人だった彼が、軍人としての完ペキな冷徹さや限りなく純粋に近いに暴力にバラバラに引き裂かれてしまった末路、すでに崩壊したカーツ大佐という人の残骸のみがとどめを刺してくれと助けを求めて喘いでいた所に、あのエンディングだったんだろうな。

『恐怖…』

被害者であった人がある時点で取り込まれて同じ加害者になり、どんどんドグマにがんじがらめに飲み込まれていって、また被害者がどんどん生まれて同じ加害者になって飲み込まれていって…

鼠算式恐怖の大量生産(´Д`lll)
暴力の源は恐怖…

やっぱり、この映画を内面的に見た後の最大の教訓は【自分の恐怖を知り尽くし、飼い馴らせ】【敵を知り尽くせ】ってことなんだろうな。

つまり、意識の外に追いやった感情は、必ず狂気という竜として舞い戻ってくるのだから、自らを騎士のように奮い立たせ、最大限の勇気を持って竜と対決し、征服し、その役割から解き放ってやるまでは、狂気と混沌の世界からは抜け出せない…っていう風に読み取れるのかなぁと。

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